2019年03月10日

ぶどうの会(2)

先週のぶどうの会は、いかがでしたか。礼拝で共に聞いた聖書のみ言葉を、自分がどう聞いたかを話していただきました。自分で話をしてみると、自分の中で何を聞いたのかが、まとまってくると思います。「今朝は、これを聞いたんだ」ということを、自分でつかむことができたら幸いです。
 また、人の感想を聞くことによって、「こういう受け止め方もあるんだ」ということに気づいたりしますね。自分一人で読んで、聞いていたのでは気づかないことに気づかせてもらえる。これが、グループで分かち合う醍醐味だと思います。ぶどうの会の中で、この楽しさを味わうことができたら最高です。
 辻堂教会の成長、成熟ということを考えるとき、ぶどうの会の分かち合いの質がどのようであるかということが、一つのバロメーター(現在の状態をさし示す目じるし)になると思います。そして、教会の成長、成熟ということは、誰かがやってくれるということではなく、一人ひとりの取り組む姿勢にかかっています。初めて参加した方も、「こんな会だったらまた参加したい」というぶどうの会にしたいですね。
「見よ、兄弟が和合して共におるのは、いかに麗しく楽しいことであろう」(詩篇133:1)。(島津)
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2019年03月03日

ぶどうの会について

ぶどうの会は、主にある愛の交わりを深めることを目的として、第一日曜日のファミリー礼拝の後に、30分を目安に行ってきました。改めて、持ち方について確認しておきたいと思います。
@一人が長く話しをすると他の人が話す時間がなくなってしまうので、一人、3分程度でお願いします。
A人が話しているときは、その人の話をよく聞きましょう。
Bディスカッションの場所ではないので、出された問題について議論したり、人に教えようとしたりしないようにしましょう。あくまでも、「わたしは、このように感じました。わたしはこのように教えられました。わたしはこのような恵みをいただきました」という話をしましょう。
Cここで話されたことは、他で話さないことをルールとしましょう。その人が、祈祷会などでも祈ってほしいと依頼されたときは別ですが。
Dリラックスして、心を開いて話が出来る雰囲気を造りましょう。
 司会者が短く祈って始めてください。司会者が最初に話してくださると、後の方が、そのように話せばよいのだということがわかって助けになると思います。全員が話し終わったら、祈って終わります。
では、良き時を。(島津)
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2019年02月24日

あふれでたのはやさしさだった(2)

先週紹介した「あふれでたのはやさしさだった―奈良少年刑務所 絵本と詩の教室」という本の紹介の続きです。
 Dくんは、「空が青いから白を選んだのです」という詩を書きました。そして、それは亡くなったおかあさんのことを思って書いというDくんの言葉に、他の受講生から共感の言葉が寄せられます。Eくんは、言葉に詰まりながら、ようやく絞り出すようにして言います。「ぼくは、おかあさんを知りませんっ。でも、ぼくもこの詩を読んで、空を見あげたら、おかあさんに会えるような気がしてきましたっ」。そして、わっと泣き崩れてしまったそうです。すると、教室のみんなが、口々に彼を慰めます。「さみしかったんだね」「がんばってきたんだね」「ぼくもおかあさん、いないんだよ」。
 著者は言います。「社会性滋養教室にいたのは、自分たちと同じ境遇の仲間たちだった。だから、安心して自己開示し自己表現できた。表現すること自体が、一つの癒しになる。そこには、受けとめてくれる仲間がいる。それが、さらに深い癒しをもたらしたに違いない」。
 私たちは、月に一度、ぶどうの会をしています。ここで願っているのも、安心して話すことができる場作りです。そこに癒しがあるからです。(島津)
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2019年02月10日

あふれでたのはやさしさだった

 「あふれでたのはやさしさだった−奈良少年刑務所 絵本と詩の教室」(寮 美千子著 西日本出版社)という本を読みました。
 作家の寮さんが、2007年〜16年に、奈良少年刑務所で、「社会性滋養プログラム」の中の絵本と詩の教室の講師を務めた時の記録です。
 少年たちに詩を書いてもらい、それをみんなの前で読んでもらう。そして、仲間に感想を言ってもらう。そんな授業の様子が書かれています。「詩を書いてきて」と言われて、「え〜っ」と戸惑う子どもたちに、「きょうは暑かったな」という一言でもよいからと励まして、書いてきてもらうのです。例えば、こんな詩が紹介されていました。「くも」という題で、たった一行、「空が青いから白をえらんだのです」。そして、この詩を書いた子が、こんなことを言ったそうです。「おかあさんが亡くなって、今年で7年。そのおかあさんが亡くなる前、『つらくなったら、空を見てね。わたしはきっと、そこにいるから』と言ってくれた。ぼくは、おかあさんのことを思って、おかあさんの気持ちになって、この詩を書きました」と。
すると、それを聞いていた子どもたちから「Dくんのおかあさんは、きっと雲みたいにやわらかくて、やさしい人だったんだろうなと思いました」と声が寄せられます。(続く)

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おのが日を数えることを教えて

祈祷会で、詩篇90篇を読みました。この詩篇は、教会の葬儀のときに、よく読まれる詩篇でもあります。「彼らはひと夜の夢のごとく、あしたにもえでる青草のようです。あしたにもえでて、栄えるが、夕べには、しおれて枯れるのです」(5,6)。「われらのよわいは70年にすぎません。あるいは健やかであっても80年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです」(10)と言われているように、まず、人間のはかなさが歌われています。
 そして、11節でこう歌うのです。「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてください」。自分には限界があるということを悟るとき、与えられた一日一日がいかに貴重なものであるかがわかります。ですから、その一日を精一杯生きようという知恵の心が生まれるのです。さらに17節では、こう歌われています。「われらの神、主の恵みを、われらの上にくだし、われらの手のわざを、われらの上に、栄えさせてください。われらの手のわざを栄えさせてください」。主の恵みによって、私たちの手のわざは朽ち果てることはないのです。「無駄になることはない」(Tコリント15:58)のです。だから、主のわざに励もうと、歌うのです。(島津)
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2019年02月03日

食い下がる祈り

祈祷会で詩篇89篇を読みました。神さまはダビデを選び、彼を立て、イスラエルを導く王としてくださいました。そして、「彼の家系はとこしえに続き、彼の位は太陽のように常にわたしの前にある」(36)と約束してくださったのです。
 ところが、その後、イスラエルの民は神さまに従って歩むことをしないで、罪を犯し続けてしまいます。その結果、ついにイスラエルの国はバビロンによって滅ぼされ、多くの人々が奴隷としてバビロンに連れて行かれてしまうのです。
 このような状況の中で、この詩人は祈るのです。「主よ、いつまでなのですか。とこしえにお隠れになるのですか。あなたの怒りはいつまで火のように燃えるのですか」(46)と。そして彼は、神さまの約束を持ち出して食い下がります。「主よ、あなたのまことをもってダビデに誓われた、昔のいつくしみはどこにありますか」(49)。
 すぐに祈りが答えられないとき、あきらめてしまうことが何と多いことでしょう。あきらめないで、食い下がる力は、神さまの約束のみ言葉を握るところにあります。「これはあなたのお約束ではありませんか」、と言って祈るのです。その祈りに、神さまは答えてくださいます。(島津)
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2019年01月27日

絶望の中での祈り

祈祷会で、詩篇88篇を読みました。この詩篇は、絶望のどん底に置かれた人が、何も希望の光が見いだせない状況の中で祈った祈りです。多くの詩篇では、嘆きや苦しみの訴えが書かれた後で、希望の光が差し込んできて、信仰を言い表す言葉で結ばれるという形を取っています。例えば、詩篇86篇では、「主よ、あなたの耳を傾けて、わたしにお答えください。わたしは苦しみかつ乏しいからです」(1)という祈りから始まって、「主よ、あなたはわたしを助け、わたしを慰められたからです」(17)という言葉で結ばれています。
これに対して詩篇88篇では、「わが神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、夜、み前に叫び求めます」(1)という祈りで始まり、「あなたは愛する者と友とをわたしから遠ざけ、わたしの知り人を暗やみにおかれました」(18)という言葉で終わっているのです。どこにも希望の光が見えないのです。しかし、そのような絶望的な状況の中で、この詩人はこう祈るのです。「しかし主よ、わたしはあなたに呼ばわります。あしたに、わが祈りをあなたのみ前にささげます」(13)。絶望の中でも、祈ることができる、祈りを聞いてくださるお方がいることを知っている。これは、すごいことですね。(島津)
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2019年01月20日

万事を益に

 教会員のT姉が、1月14日の深夜、老衰のため静かに天にお帰りになりました。本日、私は教区の講壇交換で川崎教会に行きますので、葬儀に出席できなかった方のために、ここでT姉のことをお伝えさせていただきます。
 T姉のお嬢さんが9歳の時に、慶応病院に入院されました。同じ病室に、西落合教会の教会学校に通っていたお子さんが入院しておられ、そのお子さんをお見舞いに来た西落合教会の牧師と、そこで出会うことになったのです。お嬢さんが退院されるとき、その牧師から辻堂教会を紹介されたそうです。1955年のことでした。そのときの辻堂教会は、開拓伝道が始まってまだ4年目、小さな民家で集会が行われていました。礼拝の出席者は8名位。教会のイメージとあまりにも違うのでびっくりしたそうですが、でも、T姉はその教会に通うようになり、信仰を持たれ、それ以来、ずっと教会を支え続けてくださったのです。
神さまは「万事を益となるようにして下さる」(ローマ8:28)とありますが、お嬢さんの入院が、T姉が教会と結びつくきっかけとなったのです。「万事を益に」、これがT姉の信仰の原点となりました。私たちも、その信仰に続く者とならせていただきましょう。(島津)
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2019年01月13日

本当の幸せ

 新しい年が始まりました。誰もが、幸せな年となりますようにとの願いをもって、新しい年を迎えたのではないかと思います。私たちの教会の信仰的なルーツであるメソジストの創始者のジョン・ウェスレーは、こんなことを言っています。
「メソジストとは心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛する人である(マルコ12:30)。神がその人の心の喜びであり、たましいの望みである。…それゆえその人は神にあって幸せである。」「神と人間との愛の関係は、人間に本来的な聖なる姿を意味するばかりか、本来的な幸福の姿をも映し出している。…ウェスレーはという組み合わせを好んで用いた。」(ジョン・ウエスレー 「キリスト者の完全」 藤本満訳P41 同書注P48)
 神さまを礼拝することは、神さまに祝福された、本来の人間の姿なのですね。ですから、神さまを賛美し、礼拝をささげるとき、神さまは私たちに聖霊を豊かに与えてくださり、心も体も元気にしてくださるのです。礼拝をささげること、そこに幸いな一年を送る鍵があるのだと思います。礼拝に行かなければならないという義務感からではなく、今年も、喜びをもって礼拝をささげていきましょう。(島津)
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2019年01月06日

箱根駅伝

 今年も、2日に箱根駅伝の応援に行ってきました。いつも応援に行く3区(戸塚―平塚)では、出遅れていた青山学院が区間新の走りでトップに躍り出ました。応援に行く度に感じることですが、その速いこと、あの速さで何十キロも走るのですから、これは鍛錬の賜物ですね。
 レースはその後、東洋大学が抜き返し、往路は東洋大学の勝利。東洋大学出身の友人がいるので、彼の喜んでいる顔が浮かびました。復路は、なんと東海大学がトップに立ち、そのままゴール。東海大学、頑張りました。悲願の初優勝、おめでとう。青山学院は復路で盛り返し、2位。あきらめない走り、さすがでした。東洋大学は残念でした。今年こそという感じだったのですが。この悔しさをバネに、きっと来年、いい走りを見せてくれることでしょう。
 さてイエスさまは、主人から、5タラント、2タラント、1タラントを預かった僕の話をしてくださいました(マタイ25:14以下)。5タラントを元手に5タラント儲けた人も、2タラントを元手に2タラント儲けた人も、「良い忠実な僕よ、よくやった」と、主人は同じ言葉でほめてくれました。人との比較ではなく、自分に与えられた賜物を精一杯、用いること、それを主は喜んでくださるのです。誰でもが金メダルをもらえる。嬉しいですね。(島津)
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